会津古寺探訪

[1.慧日寺跡]

 会津は京の都から遠く離れたみちのくであるにも拘わらず、1200年前の平安初期に創建された古寺がある。大同元年(806年)に、磐梯山が大噴火をして多くの村が壊滅的な被害を受けた。その時、奈良の興福寺,東大寺で法相,唯識,華厳の各宗を学んだ高僧の徳一上人がはるばるとこの地を訪れ、噴火後間もない磐梯山の麓に草庵を開き、仏法を以って荒れる磐梯山の神を鎮めようとした。

 その草庵が磐梯町の慧日寺で、徳一がこの地方に仏教を広げる拠点にした所である。慧日寺は最盛期には100以上の伽藍が建ち並び、僧兵6千人を擁するほど繁栄したがその後廃寺となり、現在は国史跡「慧日寺跡」となっている。
 辺鄙な東北の一隅に居を構えた徳一の名が歴史に残っているのは伝教大師最澄との5年間にわたる教理論争のためである。旧仏教を代表する法相宗と新仏教である天台宗の教義上の争いで、双方多くの文書を著して論争したが、最澄が没したため決着がつかなかった。しかしそれによって天台宗の体系化が進みその後の隆盛に繋がったと云われている。

 慧日寺は、戦国時代に会津領主の芦名氏が伊達政宗に敗れたときに火を放たれ、壮大な伽藍が灰燼に帰したが江戸時代にはまずまずの規模に復興した。しかし明治初年の廃仏毀釈で廃寺になり、仁王門と薬師堂が現存しているだけである。近年になって発掘調査が行われ復元工事が始まっていた。

 慧日寺跡の奥手には徳一廟がある。中には徳一の墓と伝えられる平安時代の石造五重塔がある。塔を支える最下部の石組みはご利益があるというので信者が少しずつ削っていったので細くなりL鋼で補強し、露天だったものを建物に安置したといわれ、廟の周辺には付近の信者たちの墓石が数多く建ち並んでいる。

 

 今年(平成20年) 、復元工事をしていた金堂が竣工したとの話を聞いて4月22日に訪れた。駐車場は手前の磐梯山慧日寺資料館にあり、そこから金堂に行く道が出来ている。資料館で聞くと一般公開は25日からだが、外観は見学できるといわれて見に行った。金堂の前にはこれも復元工事の一環である中門の建設が行われていた。金堂は木端板葺きの屋根に紅殻染めの朱色の丸柱と開き戸が明るい建物で、翌日に竣工式でもあるのか関係者が忙しく出入りしていた。以前訪れた時には遺構という感じだったが、復元された立派な金堂を見ると昔日の偉容が想像できる。奥の方には満開の大きな種蒔き桜の古木が文字通り花を添えていた。

[2.勝常寺]

湯川村にある東北で唯一の、国宝の仏像がある勝常寺を訪れた。仁王門の先に石畳の参道が続き正面に薬師堂があるが、手前の納経所に案内の女性が待っていた。突然行ったのでは仏像が見られないと、ガイドブックにあったので前日に電話をしておいたのである。
 勝常寺は平安時代の初め、810年頃徳一上人によって開かれたと云われている。徳一は5体の薬師像を造り、会津の5ケ所に寺を建て祀ったと伝えられており、勝常寺はその中央にあって会津中央薬師と呼ばれている。その薬師如来像は脇侍の日光、月光両菩薩と共に国宝に指定されている。他にも9体の平安佛が国の重要文化財の指定を受けている。創建から1200年の長い歳月を経ているのだが、その間には廃寺同然に荒れ果てたり、伊達政宗の会津侵略で薬師堂を除く伽藍の殆どが消失したりした。そのような危機を住職、村民が一体となって乗り越え、小さな寺であるにも拘わらず、多くの文化財が今に残されているのである。

 まず右手にある収蔵庫に案内される。ここには本尊の薬師如来像を除く10体の国宝、重文が安置されている。いずれも平安初期の作であり、ケヤキなどの一木造りである。中央にある重文の十一面観音立像は会津三十三観音第10番札所の本尊である。他の仏像と違いかつらの一木造りである。国宝の日光菩薩、月光菩薩立像を左右に従えている。四方には持国天,多聞天,増長天,広目天の四天王像が置かれているのだが、広目天は東京国立博物館に寄託されていて三天王像になっている。

また地蔵菩薩立像が2体ある。立派な顔立ちの延命地蔵と優しい顔立ちの雨降り地蔵である。雨降り地蔵は大正初期まで境内前の弁天池に浸して雨乞いをしていたそうで痛みが激しい像であるが、その顔立ちは親しみ易く、村人に微笑んでいるようである。更に聖観音立像と虚空蔵菩薩像と伝えられる天部(四天王など仏を護る仏たちの総称)立像がある。
これら10体の漆が殆ど剥落し木肌が見えるようになった仏像が立並ぶ姿は迫力があり、圧倒される感じを受ける。しかし個々に十一面観音像や延命地蔵像などの慈愛あふれる顔を眺めているとほのぼのとして心が落ち着く。それこそが1200年もの長い間伝えられてきた仏の本性なのだろう。

(写真は上:十一面観音、下:雨降り地蔵)

 収蔵庫から薬師堂に行く。この建物は室町時代の作だそうで、国の重要文化財の指定を受けている。鍵を開けて貰って内陣に入る。須弥壇の中央に大きな厨子があり国宝の本尊薬師如来坐像が祀られている。堂々たる体躯で頬肉の張り肩から胸の厚みなど圧倒されるような仏像で慈愛より畏怖の念を覚える仏像である。脇侍の同じく国宝である日光菩薩、月光菩薩立像は収蔵庫に移され、厨子の両脇には小柄な十二神将が並んで守護している。
  須弥壇の左端に徳一上人坐像がある。徳一自身が彫ったと伝えられ、強い意志を感じさせる顔面や肋骨が浮き出している胸など風格のある像である。顔面と膝上の部分に刀傷があるが、伊達政宗の会津侵略の時、乱入した伊達軍によって傷つけられたものといわれている。(写真は本尊薬師如来坐像徳一上人坐像)
 境内には終戦の翌年(昭和21年)にここを訪れた土井晩翠の詩とウォーナー博士の記念碑が立てられていた。


[3.禅定寺]

 徳一上人坐像 同じ湯川村の禅定寺に向かう。場所が判らず役場で聞く積もりだったが間違って教育委員会に行ってしまった。しかし文化財の管理は教育委員会の管轄らしく、見学するにはその方が良かったようで、係りの人が親切に管理をしている人に電話してくれ、場所も丁寧に教えてくれた。

 禅定寺は七重塔を備えた大寺だったが兵火や台風によって焼失倒壊し、小さな観音堂だけが残っている。本尊は聖観音立像だが秘仏になっている。
 管理者の常法寺さんに鍵を開けて貰うと、本尊が納められている厨子の左側に県指定重文の地蔵菩薩坐像が祀られていた。裸電球をつけると切れ長の目にはめ込まれた水晶の玉眼が見る人を刺すように光り、思わずオッと声を上げてしまった。
 地蔵菩薩は穏やかで優しい顔立ちをしているものだと思っていたが、この仏像は引き締まった理知的な容貌をしており人の心を見通すようである。光背の赤と金泥の彩色もきれいに残っている。何時までも見飽きない魅力を感じた。他の寺では撮影禁止だったが、この寺では撮っても良いといわれ早速この魅力溢れる菩薩像をカメラに収めた。
会津ではこのような小さな仏像が部落ごとにひっそりと安置され付近の村人の信仰を集めているという事である。勝常寺の沢山の仏像が戦火を逃れて現在まで守られてきたことも含め、この地には地域に密着した信仰が深く根付いていることを実感した。(写真は観音堂と地蔵菩薩坐像)
(H18/9,H20/4訪)