イバイチの幕末の水戸(3)

[ 天狗党の乱(元治甲子の変)その2 ]

H23-9-1作成   

2−4 一橋慶喜の上洛と水戸藩の動き

 文久2年(1862年)一橋慶喜(よしのぶ)が将軍家茂の後見職に任ぜられ将軍の上洛に先立ち上洛することになったが、一橋家は家臣が少ないため出身藩である水戸藩に上洛への追従が命ぜられ、水戸藩主徳川慶篤(よしあつ)以下数名の家臣が追従した。その中に慶喜の希望で水戸藩家老の武田耕雲斎が入っていた。慶喜は各藩の志士にも知られている耕雲斎を同行させることで京都での折衝を円滑に進めたい意向だったと云われる。

 耕雲斎は改革派(尊攘派)で信望が厚く、坂下門事件の責めを負って隠居させられていたが、藩主徳川慶篤が尊攘派の懐柔を狙って、慶喜の後見職就任と同時に執政として復職させ江戸屋敷で藩主を補佐して居たのである。

 また上洛には後日天狗党の乱を引き起こす藤田小四郎(藤田東湖の子)、山国兵部や天狗党の悪名を高めた田中愿蔵も追従していた。小四郎は京都での長州藩の桂小五郎、久坂玄瑞など諸藩の尊攘志士との交流を通して尊王攘夷の志を益々堅固にして行った。特に長州藩士と水戸藩士の間では以前から提携して幕政改革を行う密約(丙辰丸の盟約)があり、小四郎は帰藩后も桂小五郎などと連絡を取り、東西呼応して挙兵しようとしたが、この時は耕雲斎から軽挙を戒められて断念している。

 その翌文久3年(1863年)8月18日の京都での政変によって長州藩を中心とする急進的攘夷論が退けられ、公武合体派が主導権を確保した朝廷は改めて幕府に対してすでに開港した横浜港の鎖港を行うよう求めた。水戸藩主徳川慶篤も再三申し入れたが、薩摩藩などは反対し、幕閣としてもその実現は困難であると知っているので理由を付けて実施に踏み込まず尊攘激派は不満を高めていったのである。

2−5 藤田小四郎の挙兵と市川三左衛門の台頭

 その翌年の元治元年(1864年)に藤田小四郎は常陸、下野(しもつけ)を遊説して同志を集め、徳川斉昭の位牌を奉じ、攘夷の速やかな実行を求めて町奉行田丸稲之右衛門を総帥にして62名の同志と共に3月27日に府中(茨城県石岡市)の鈴ノ森稲荷神社という小社に集結し、成功を祈願した後、筑波山大御堂で挙兵した。(写真は鈴ノ森稲荷神社と由来記の一部及び解説文)
 小四郎は弱冠23才だったので59歳の田丸を総帥にしたのである。挙兵という手段をとれば幕府は鎖国攘夷を決意するだろうという単純な水戸学名分論からの発想だったといわれるが、その年の7月19日に蛤御門の変(禁門の変)が起ったことや桂小五郎から軍資金として1千両受領したという話などを考えると長州藩との連携があったのかもしれない。

 蛤御門の変とは前年8月18日の政変で京を追われた長州藩が失地回復を狙って東上し、京都市内で幕府及び会津、桑名、薩摩の藩兵と交戦し敗れた事件である。この事件で久坂玄瑞、真木和泉などの水戸学の理念から始まった尊王攘夷論を進めた志士たちは壊滅し、その後の志士たちはは尊王攘夷から尊王倒幕に変質した活動になって行くのである。

 それはさておき、筑波山挙兵には近隣藩からの同調者も増えて数日中に170名に達した。そのため筑波山より徳川家康を祀る日光東照宮を確保して攘夷を唱えた方が有利と考え進攻したが、日光奉行に阻まれて果たせず下野国(栃木県)栃木町近くの大平山(343m)に留まった。(写真は大平山神社拝殿と近くの謙信平にある勤王士義旗挙此地揚の碑)

 ここに暫らく陣を張ったが武士ばかりでなく町民、農民も含めた同調者が多く参加し500人近くの人数に増え、また目的の一つだった宇都宮藩に対する攘夷実行の働きかけも不調に終わったので5月末に再び筑波山に戻った。この集団を天狗党の筑波勢と呼ぶ。筑波山神社境内には天狗党顕彰の碑があるが小枝が覆っていて全体が見えなかった。また参道入り口近くに藤田小四郎の像が設置されている。23才の若さに溢れた像である。
 その頃意見の相違から筑波勢から分かれた田中愿蔵の一隊は軍資金の提供を断った栃木町などで放火略奪をしたため、天狗党の評判は一挙に落ちた。田中隊は天狗党を除名されたが、幕府は天狗党追放令を出して常陸・下野の諸藩に出兵を命じた。

 一方水戸藩では江戸藩邸では改革派の武田耕雲斎などが藩主慶篤を奉じており、筑波挙兵を憂いた藩主慶篤の意向を受けて鎮撫策として自重解散を勧めたが成功しなかった。それに対して弘道館の学生たち(諸生)から藩の混乱を憂う声が起こり、大洗町の願入寺に多数集まって筑波勢鎮撫の決議をし、城代朝比奈弥太郎、家老市川三左衛門などに江戸に出て事態の解決にあたるよう嘆願した。

 門閥派の朝比奈、市川たちはそれを奇禍として改革派鎮派の協力も求め、諸生を含めた五百余名が江戸の水戸藩邸に入り藩主慶篤と会見した結果、6月1日に朝比奈、市川たちが新たに執政の要職を占め、武田耕雲斎などの改革派は免職になった。この頃から門閥派を筑波勢の天狗党に対して諸生党と呼ぶようになる。

 門閥派の水戸藩士数百名を率いた市川三左衛門は、3千8百名の追討軍を従えた幕軍や常陸・下野の諸藩の兵と共に下妻に陣を構え、約8百名に増えた筑波山の天狗党と対峙した。緒戦は追討軍有利だったが、7月9日夜半に天狗党が幕府追討軍の本営になっていた多宝院を奇襲し、焼き討ちしたことにより敗走し、追討の幕軍は戦意を失って江戸に引き返した。平成5年に建てられた本堂新築再建記念碑にそのことが少し書いてある。(写真は多宝院山門、本堂、記念碑の一部)
  市川三左衛門率いる門閥派軍は江戸の水戸屋敷に戻る途中、改革派鎮派の巻き返しによって僅か1ヶ月で執政を免ぜられ水戸に下る途中の朝比奈弥太郎などに遭い、共に水戸に下って防備の手薄だった水戸城を占拠し、残っていた革新派の弾圧を始めた。

2−6 慶篤名代松平頼徳の水戸派遣

 幕府追討軍の敗走により事態を重視した幕府は、若年寄田沼玄番頭意尊(げんばのかみおきたか)に諸藩総指揮を命じて新たな追討軍を編成し、関東諸藩ばかりでなく奥州の諸藩にも出兵命令が出され、幕府の追討軍は1万3千の兵力に増強され7月中旬から順次江戸を進発させた。

 折しも京都では7月19日に蛤御門の変(禁門の変)が起り、長州藩兵が京都に攻め上ったが圧倒的多数の幕軍と会津藩・薩摩藩を主力にした諸藩軍により敗れ、それにより急進的尊攘派は壊滅してしまった。
公武合体派が主力を占めた朝議は長州藩追討を決定しその旨幕府に伝えられた。そのため幕府は実行困難な横浜港閉鎖を放棄し、長州征伐と天狗党追討に本腰を入れることになったのである。

 水戸藩主徳川慶篤は藩内の混乱を収拾すべく帰国したかったのだが、御三家の尾張、紀伊藩主とも帰国して江戸には居らず、また将軍家茂自らの長州征伐のため慶篤が江戸留守居役を命じられ、江戸を離れられなかった。そのため慶篤は幕府に請願して、支藩の宍戸藩主松平頼徳(よりのり)を慶篤名代として水戸に派遣し、藩内鎮撫を行うことになった。

 宍戸藩は水戸徳川家から1万石を分知され、宍戸(茨城県笠間市内)に陣屋を構えていたが藩主は常府で家臣は水戸藩からの出向が多く、殆んど江戸で執務していた。従って天狗、諸生が対立している水戸藩の内情もあまり分からず、藩主名代の立場で水戸に入り双方の言い分を聞いて鎮撫すれば良いとの考えだったのかと思われる。

 8月4日松平頼徳は江戸を発って水戸街道を下った。随行者は宍戸藩士30余名と水戸江戸藩邸の家老榊原新左衛門をはじめとする水戸藩士700余名だった。その頃出島村(茨城県かすみがうら市)に滞在していた前執政の武田耕雲斎はそのことを知って諸生党の勢力を追い払う好機として彼を慕って集まった尊攘派の士、農民たち800名以上の集団と共にその後を追い、さらに街道筋の尊攘派の農民なども集まって頼徳一行は3000名に膨れ上がった。この一行を「大発勢」という。

 水戸で権力を握った市川三左衛門はそれを知り、松平頼徳は尊攘論を信奉し家老榊原新左衛門も尊攘派であるので、このままでは門閥派が一掃されるとの不安を覚えた。また執政から追い落としたばかりの武田耕雲斎一派も合流したことを知り、一行の水戸入りを阻止することを決断して、水戸街道の堅倉宿(茨城県小美玉市)付近の橋を落とし、道路に大木を横たえるなどして通行を妨害した。 

 橋を架け直し、更に水戸近くまで進むと門閥派の兵が水戸城下入口にある備前堀という用水路に架かる銷魂橋(たまげばし)付近に陣を敷いており、頼徳一行はそのままでは水戸城に入ることが出来ないことが明らかになったため、8月10日の夕刻水戸城南方の台町にある薬王院という天台宗の古刹に入った。
   (写真は銷魂橋とその解説碑及び薬王院山門と本堂)

 そこで門閥派の市川三左衛門の使者から「供を連れて進むと戦になるのが明らかなので、頼徳ひとりで入城するように」との伝言を聞いた頼徳は「私は、将軍(家茂)の御命令により、水戸藩主の御名代として参ったのである。私が供の者と入城することをこばむのは、水戸藩主の入城をこばむのと同じである。これを市川につたえるよう申せ」(吉村昭著「天狗争乱」より)と言い、更に交渉が続いている最中に門閥派の兵が頼徳の前衛隊に発砲し、頼徳側も応戦した。 それによって頼徳は、心ならずも水戸藩の門閥派(諸生党)と尊攘派(天狗党)の争いに巻き込まれて行くのである。

 
注) 写真をクリックすると大きくなります。



     前ページ