イバイチの幕末の水戸(6)

[ 天狗党の乱(元治甲子の変)その5 ]

H23-9-25作成   

 2−9 天狗勢の西上(1)

 10月23日の大発勢の降伏の前夜、陣を引き払った筑波勢、武田勢から成る天狗党(以下天狗党と呼ぶ)は1,000名以上の軍団を維持していた。那珂湊を離れた天狗勢は山岳地帯の大子村(現在の茨城県大子町)に向かい、途中の門閥派の農兵たちの抵抗を排除しながら10月25日大子村に入った。大子村には前藩主斉昭や藤田東湖も訪れたことがあり、尊攘派には親近感を抱いている農民が多く、桜田門外の変の時指揮をした関鉄之介が暫らく匿われたことがある。

 大子村に入った天狗党は、早速幹部が集まって今後の方針を決めるための会議を開いた。論議は当初の目的である尊王攘夷の決行が門閥派の妨害にあって思わぬ方向に行ってしまったが、こうなったからには大子以北の久慈山塊の要害に拠って戦いを有利に展開して行こうという意見とあくまでも本来の目的である攘夷の実行を進めるべきだという意見に大別された。

 しかし久慈山塊に籠って追討の幕府軍、門閥派と戦う意見には何のための戦いかという名分が失われた中で、いつまで続くのかの展望が望めずじり貧になる恐れがあった。また攘夷を実行するという意見の方には、それは筑波挙兵時の目的だったが諸藩の賛同を得られず賊軍の汚名を着せられた今、どう打開していけば良いのかとの課題があった。

 議論百出する中で武田耕雲斎が京都禁裏守衛総督として在京している一橋慶喜の下に行き、慶喜から朝廷に攘夷の志を訴えようとの意見を出した。武田は以前慶喜に随行して京まで上って補佐したことがあり畏敬の念を抱いていた。それに対し藤田小四郎、田丸稲之衛門らも全面的に賛同し西上して慶喜に志を訴えることが決まった。

 京までは長行程であり、1000余名の集団が行軍するので、武田耕雲斎を総大将とし、軍師山国兵部、本陣田丸稲之衛門、輔翼藤田小五郎、仝竹内百太郎、以下隊員を5つの隊に編成し直し、軍律を定め、諸準備を整えて11月1日に大子村を出立した。
ここから12月22日福井県敦賀市近くにある新保村で越中加賀藩に降伏するまで、世の耳目を集めた天狗党の西上が始まるのである。

 吉村昭著の「天狗争乱」の後半はこの天狗党の西上からその最後までを克明に記しているので、詳しく知りたい方はそれを読んでもらいたい。新潮文庫定価819円(税別)である。ここではその概略を述べるだけにしたい。

 天狗党は11月1日に水戸藩大子村を出立すると、黒羽藩、芦野陣屋、太田原藩、宇都宮藩などの藩領を通り例幣使街道太田宿(群馬県太田市)から中山道本庄宿(埼玉県本庄市)に出た。更に中山道の脇往還である下仁田街道に入り、一の宮(群馬県富岡市)を経由して11月15日に下仁田(群馬県下仁田町)に着いた。通過した各藩とも間道を通るなら妨害せずとして、酒代、見舞金などを贈ったりしたので天狗党は殆ど損害を受けることは無かった。

 しかし天狗党筑波勢が決起した初期の頃、下妻の戦で敗れた幕府軍に所属していた高崎藩はその恥をそそぐべく下仁田で対決する決意だった。高崎藩の本隊は水戸の部田野原からまだ帰還せず、残った藩兵のうち200余名が布陣して920余名の天狗党と戦うことになった。戦は翌16日早朝から開始されたが、人数に大差がある上に天狗党の軍師山国兵部の的確な作戦と用兵によって半日の戦の後、天狗党側の勝利で終わった。戦死者は高崎藩36名、天狗党4名だった。(写真はふるさとセンター前の案内図とセンター内部にある解説板)

 下仁田町ふるさとセンター歴史民俗資料館には、下仁田戦争として関連図や兜、実弾、使用した矢などが多数展示してある。館員から説明を受け、「下仁田戦争回顧」という郷土史研究家 大塚政義氏が作成したパンフレットを頂いた。その中から「天狗党行軍経路略図」を次号で使用させて頂く積りである。(写真はふるさとセンター内に展示してある地図と写真)

 街中には今なお弾痕が残る高崎藩本陣が置かれた里見家や天狗党本陣になった桜井家、戦死した武士たちの弔魂碑として明治になって建てられた 「義烈千秋の碑」と、水戸有志により当時の下仁田町の扱いに謝意を表した 「維新之礎」の碑、などがある。(写真左から弾痕が残る高崎藩本陣、天狗党本陣、義烈千秋の碑と解説板、維新の礎の碑)

 また勝海舟書の高崎藩士戦死の碑、13才で戦死した天狗党の野村丑之助の墓及び義烈照千古の碑、天狗党が両陣営の戦死者を葬った本誓寺などの数多くの史蹟が残っている。下仁田町では主要な史跡に説明板を立て、町内散策コース案内マップを整備している。

 天狗党は下仁田から内山峠を越えて再び中山道に入り、八幡宿から望月宿、さらに和田宿に着いた。和田宿から和田峠を越えると高嶋藩下諏訪宿である。和田峠には松本藩、高嶋藩の1000余名の藩兵が天狗勢を迎え撃つべく峠から諏訪方面に下った西餅屋茶屋近くの要害の地に堅固な陣を構築していた。(写真は西餅屋茶屋跡、旧中山道2か所)

 11月20日午後、峠上で戦闘が始まり両軍激しく戦ったが夕刻になっても勝敗がつかなかった。しかし天狗党軍師山国兵部は兵の一部を敵の背後に迂回させる作戦を立て、夕闇にまぎれて腹背から攻撃を行ったため松本藩、高嶋藩の連合軍は浮足立ち全軍総崩れとなり天狗党の勝利で終わった。この戦いで天狗党が戦死者を葬った樋橋という場所に、後に高嶋藩が塚を作って祀った。後に水戸の関係者が梅の木を献じ、戦死者供養のために慰霊祭記念石柱などを設置している。

 天狗党は無人の下諏訪宿で休憩した後、諏訪湖の北岸から伊那街道に入り高遠から飯田を経、清内路峠から再び中山道の妻籠宿に出た。更に中津川宿(岐阜県中津川市)、太田宿(岐阜県美濃加茂市)、鵜沼宿(岐阜県各務原市)と道を進めた。その間沿道の各藩では城下町を通らず間道を行くように内密に働きかけ、軍資金を用意したりした。下仁田、和田峠の戦で天狗党が圧勝したことを知り、幕府から追討の命が出ていたにもかかわらず自藩の損害を避けようとしたのである。

 天狗党は鵜沼宿(岐阜県各務原市)でこの先の長良川の対岸には大垣藩、彦根藩、桑名藩の3藩兵が陣を敷いているとの話を聞き、戦いを避けて中山道を離れて北上し揖斐川の畔にある揖斐宿(岐阜県揖斐川町)に着いた。陰暦12月1日の事で、現在の陽暦に直すと12月末であり山には雪が降っていた。

(以下次号)


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