「修羅の都」を読んで
 

2018年 5月 13日 (日)

 修羅の都    伊東 潤著   2018年2月発売

 源平時代の源頼朝とその正室、北条政子の物語である。
 先日鎌倉の鶴岡八幡宮に行ったばかりであり、また伊東潤は好きな作家でもあるので、迷わず図書館から借りてきた。

 頼朝は朝廷の支配から脱して鎌倉幕府を開き、幕末まで続く武士による支配を始めた人物でありながら、源氏による将軍職は三代しか続かずに以後は北条氏の執権時代が続いた理由はなぜなのか、また尼御前といわれた北条政子の実像はどうだったのか詳しく知らなかったので興味を持って読んだ。

 物語は頼朝の死後二十二年経過した承久三年(1221)に後鳥羽上皇が鎌倉幕府三代将軍源実朝が暗殺された混乱に乗じて執権の北条義時に対し討伐の院宣を出したが、逆に鎌倉幕府の御家人に攻め込まれて敗れた承久(じょうきゅう)の乱のとき、政子が出陣する御家人を鼓舞する演説をしようとするところから始まる。この乱に勝ったことによって北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すことになった。

 そして物語はさかのぼって源義経が元暦二年(1185)に壇ノ浦で、平家を討滅した書状を頼朝が読む場面に変わる。頼朝は義経に「平家討伐よりも、先帝(安徳天皇)の保護を優先すべし」と伝えていたのだが義経は「平家を滅ぼす」ことだけが目的であり、その後をどうするかなどは考えておらず。頼朝との考え方の違いがあった。

 やがて京都に戻った義経は頼朝との不仲が明白になり、奥州の藤原秀衡を頼り平泉に逃れた。しかし文治元年(1187)に秀衡が没すると後を継いだ泰衡が義経を殺したにもかかわらず頼朝は奥州に兵を出し、奥州藤原氏を滅亡させた。

 建久三年(1192)に後白河法皇が崩御し、頼朝は征夷大将軍に任じられ晴れて諸国の武士を統率する名目を得た。

 その後、建久六年の頃から頼朝は老耄(ろうもう=認知症)にかかり、政務にも事欠くようになってきた。朝廷側も巻き返しを図り、このままではせっかく築き上げた鎌倉幕府そのものが瓦解する恐れが出てきた。そしてつかの間の正気に戻った頼朝は政子に鎌倉幕府の将来を託して政子の作った毒入りの握り飯を食べ、馬に乗って走っている途中落馬して亡くなった。建久十年頼朝五十三才の時だった。

 最終章は物語の最初に出てきた承久(じょうきゅう)の乱で鎌倉を出陣しようとする御家人たちを鼓舞する名演説をする場面である。心を動かされた御家人は十数万騎に膨れ上がって京に攻め上り鎌倉幕府の危機を救ったのである。

 頼朝が鎌倉幕府を開いて守護・地頭を置いた頃はその威令は東国だけにしか通用せず、西国は広大な荘園を持った皇室が支配していた。それを西国も含めた全国に守護・地頭を置けるようになったのは承久の乱以後で、その意味でもこの乱は鎌倉幕府の権威を確立した大事件だったのであり、頼朝の死後二十二年を経過したにもかかわらず、政子が登場するこの乱のことを最初と最後に述べたことは大きな意味があったのである。

(この項終わり)



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