乙川優三郎の 「二十五年後の読書」
「この地上において私たちを満足させるもの」を読んで
 

2019年1月21日 (月)

 二十五年後の読書        乙川 優三郎著 2018年10月発売

 この地上において私たちを  乙川 優三郎著 2018年12月発売
 満足させるもの    


 昨年(平成30年)12月22日の朝日新聞の書評欄に、作家の諸田玲子が、上記2冊について記した書評が大きく掲載されていた。


 乙川優三郎の作品は直木賞を受賞した「生きる」を平成15年に読んで以来、ほとんど読んでいる。その中で平成24年に「麗しき果実」、25年に「脊梁山脈」、26年に「トワイライト・シャッフル」、28年に「ロゴスの市」について感想を書いたほど愛読している。

 早速12月28日に図書館に行き、「二十五年後の読書」を借りることが出来た。その後、1月9日に「この地上において私たちを満足させるもの」も、予約して借りられた。

 この2冊は発売日が2か月しか違っておらず。しかも「二十五年後の読書」の主人公である書評家の響子が、谷郷敬という恋人の作家との別離により生きる気力を失ってしまった時に届けられたその作家の最新作が「この地上において私たちを満足させるもの」という題名になっているという体裁である。



  「二十五年後の読書」は、主人公が中川響子という55才の女性で、30年越しの作家と男女の関係にある。しかし作家と書評家と立場は違っていてもお互いに真摯に文学に向き合っている。

 作者は響子の考えとして、書評や評論の中には分析として優れたものもあるが、根本にあるべき文学への愛情を欠いていたり、文学青年ばりに初(うぶ)な指摘もあって、評論家を名乗る前に人間を磨いてほしいと思うことすらある。しかも文章がひどく拙い。短い書評でも文学に負けない美しい日本語で書くべきだと述べている。

 そして最後の頃、届けられた谷郷の新しい作品を読み始めた印象として、作家の筆は嫌なつまらない人間を書きながら不愉快で終わらない文章がある。作家は不屈の意志をもってそのことに挑んでいる気がした。的確な心理描写があり、目に浮かぶ情景描写があり、選び抜かれた言葉による最適な表現がある。

 無意味な会話を大胆に省いて、ひとこと二言で心情を伝える密度が快い。と書いており、否が応でも次の作品である「この地上において私たちを満足させるもの」について期待を持たせている。



 「この地上において私たちを満足させるもの」は、高橋光洋という老作家が、若いころフランスからイタリー、スペインと放浪し、ポルトガルからインド、タイを経て、フィリピンに渡った。


 その間多くの強烈な出来事に逢い、やがて日本に帰って作家を志し、名のある文学賞を受賞した。そして編集者だった矢頭早苗と生活を共にすることになった。

 しかし自分が書くべきことは鮮明に見えていたが、書くことは言葉との闘いであり、ほんの一瞬のことをどういう言葉で表現するかによって、まったく別の景色になってしまう。想念の中に見えている世界をふさわしい言葉で表せたとき小説は立ってくる。それこそ万感を呼ぶのである。と考えると、これが高橋光洋の文体と呼べるものに中々ならない。

 そんな時、たまたまテレビで日本人とフィリピン人とのボクシングの試合を見て、そのフィリピン人が、昔マニラの貧民窟で隣の家に住んでボクシングの練習をしていた少年だったことに気付き、自分も苦しくても躓いて(つまずいて)も書いていこうとする気持ちになった。

 しかし、光洋を励まし続けた早苗が膵臓がんで急逝してしまうと、光洋は酒に入浸りになってしまったが、やがて早苗が最後に仕事で行ったタヒチに赴き、その鮮烈な景観や現地の人の人情に触れ、徐々に気力を取り戻し、早苗の骨をこの海に散骨しようと考えた。

 その後も多くの変遷があったが、その一つとして、マニラで寄宿していたあと日本に引き揚げる時に、その家の娘が医師を志していることを知り、残りの金を全部渡したことがあった。その娘が志望通り医師になり、老年の光洋を案じてソニアという親戚の娘を家政婦として日本に送り込んできた。

 ソニアやがて日本に永住することを決意し、雑用から解放され執筆に専念できるようになった光洋はソニアを養女にしようと思っている。

 海辺の見える家で、光洋は青年時代人間製鉄所で働いたおりの当時の安アパートや小さな飲み屋のことを思い浮かべ。あの当時のことなら良い佳編になるのではないかと心の中で思い浮かべていた。



 乙川優三郎の作品は以前から余分な表現や冗長な文章では無く適切で読み易い内容のものが多く、読んでいて気分が良いので愛読しているのだが、今回のこの2冊は作者自身がそう考え実践しているであろうことを作品の中で述べているので、再読した時気を付けて読んだ。

 同じような内容のストーリーを、場所や登場人物を変えて描いているだけの作品を多く出している作家には、耳が痛いのではないかと思った。

 書評をした諸田玲子は最後に、「死や別離や苦悶の先にある希望、それが文学だよ――と、そんな著者の声が聞こえてきたような。それは文学だけに留まらない。人間にとって充足とは何かという重い問いかけが、この2冊にはつまっている。」と書いている。


 (この項終わり)

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