火坂雅志・伊東潤の 「北条五代(上)・(下)」 を読んで(1)


2021年3月13日 (土)
  「北条五代(上)・(下)」

       火坂 雅志  伊東 潤

   朝日新聞出版  2020年12月発行


 戦国時代に勃興し、豊臣秀吉によって滅ぼされた北条早雲から北条氏直に至る五代に亘る、後北条氏の盛衰を描いた「北条五代」という歴史小説は、NHK大河ドラマになった「天地人」などの作者である火坂雅志が平成23年(2011)から平成26年(2014)まで書き進んだが、病のため、平成27年(2015)急逝された。
 その後を、同じ時代小説作家である伊東潤が平成29年(2017)から受け継いで書き進め、令和2年(2020)完成させたものである。

 源氏滅亡の後執権になった北条氏に対して応仁の乱前後の戦国時代に勃興した後北条家については伊勢新九郎が戦国大名に成り上がって北条早雲になったことと、最後に豊臣秀吉によって滅ぼされたことくらいしか知らなかったが、この本によって後北条氏は早雲が関東の覇者となったのではなく、歴代の藩主が父祖の教えを守り領国を発展させていったのだと知った。武田信玄や上杉謙信のように、一代の英傑によって領国が創られたのではなく、何代もの領主が兄弟親族の和を保ちながら着実に施策を進めて行った結果が関東の盟主になったのである。

 まず、伊勢早雲は伊豆の堀越公方を討ち更に伊豆一国を平定し、韮山城を関東進攻の本拠とした。早雲は早速年貢の軽減などの仁政を敷き、農民たちの心をつかんだ。すなわち、それまでは六公四民や七公3民等の酷税を課していたのを四公六民と農民側の取り分を多くする政策を取った。そのため農民たちは喜び、早雲の治世が続く様に自分たちも尽力したいと望むようになり、領内の農民の次男三男を雑兵として雇用した時は丁度稲刈りが終ったばかりの農閑期だったこともあり喜んで合戦に参加し、早雲の軍団を構成した。

早雲は伊豆の次に次に小田原城の大森氏を破り、更に三浦氏の拠点である三浦半島を攻め、新井城に拠る三浦氏を滅亡させ、ここでも伊豆の領地と同様に、四公六民の年貢優遇策を取り領民の心をつかんだ。それによって伊勢一族は伊豆の国に加え、相模の国も版図に収めたのである。しかしその後の早雲は体力の限界を悟り、家督を33才の嫡男氏綱に譲り、関東征服の野望を子孫に託して64才で亡くなった。

 早雲の後を継いだ二代目の氏綱はかねての早雲との約束に従い、北条への改姓の勅許を受け、伊勢あらため北条の家格を得た。それによって単なる成り上がり者ではなく、関東の名門であるとの名目を得られたのである。
 早雲亡き後、内政の充実に専念していた氏綱は38才になった年に江戸城の扇谷上杉朝興を攻めて勝利した。しかし、その後扇谷上杉朝興は山内上杉家と連携し、北条氏の急激な勢力拡大に警戒心を抱く甲斐の武田信虎も加わって反攻を開始した。一方で、北条氏綱の嫡男氏康は14才の時、父の氏綱に叱責されて世の中を知るために小田原を出奔し、九州日向に渡った。

最初の著者火坂雅志は、ここまでで病に倒れ急逝した。以下は伊東潤が遺志を継いで書き進めた内容である。

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 2年後、武者修行を終わった氏康は小田原に戻った。16才になった氏康は父氏綱が岩付城で包囲されたのを救援に行き、敵の本城を突く体制を作って慌てさせ、無事に父を救出する手柄を立て次代を担うものとして認められた。
 やがて古河公方の要請で小弓公方を討ち、関東管領に任命された氏綱は、荒れ果てた鶴岡八幡宮の再興を目指して8年かけて造営し、落慶式には朝廷や京の貴顕も招待し、北条氏が東国の武士の頂点になったことを裏付けるものとなった。それも一段落した天文10年(1541)55才の氏綱は、義を守り民のことだけを考える為政者を目指せ、さすれば天は必ず味方するとの遺訓を残して亡くなった。

3代目の家督を継いだ氏康は27才だったが、その領国は伊豆、相模二か国に加えて武蔵国の南半分、駿河国の東半分など関東全体の約半分に達していた。

 天文13年(1544)氏康は武田晴信との間に同盟を締結した。これは父信虎を追放した直後に山内上杉憲政の侵攻を受けた苦い経験から晴信が望んだものだった。
 その後今川義元が加東地区に兵を進めるという事件が発生した。氏康は同盟を結んだ武田晴信に仲介を依頼した。しかし晴信は義元と組んで加東地区に進んできた。氏康は5千の兵を差し向け膠着状態に陥った。しかしそれに引き続いて関東管領の山内上杉憲正と扇谷上杉朝定によって河越城を大群で包囲されるするという事態に陥った。

 氏康は加東を取るか河越を取るかを迫られたが、今川、武田という強敵の前に、関東での勢力の強化が当面の課題であると決め、今川方に加東地区を渡し、川越をどうするか戦略を練るのだった。

(ここまで上巻)

 やがて氏康は、甲斐の武田晴信が信州に兵を進めたことによって当面関東には進出できないことを知り、小田原から川越に向かって出陣し、包囲されている川越城と連絡を取り、城側と呼応して扇谷上杉家の軍勢を破り、総大将である扇谷上杉朝定を討ち取った。この河越合戦により氏康は武蔵国の大半を領有することになった。

 天文23年(1554)氏康は敵対していた駿河の今川義元と甲斐の武田晴信との間で、攻守同盟を締結した。今川は京に上るべく、西に進み、武田は上杉を破り、日本海に進出しようとしており、北条は関東の制覇を狙っているので、三国は利害が一致しそれぞれの敵に当たれることになった。

 永禄2年(1559)氏康は上州を完全制覇して房総の里見氏を除き、名実ともに関東菅領になった。それを機に氏康は当主の地位を長男の氏政に譲ることにした。しかし当分の間、軍事、外交面は氏康が担うことにした。

 永禄3年(1560)になり、前年に上洛し朝廷から関東菅領のお墨付きをもらった上杉政虎改め輝虎は、関東に兵を出した。氏康は小田原城を難攻不落の城にすべく、曲輪を強化して待ち受けた。また当時は少なかった鉄砲5百丁を用意し、また兵糧も多く城内に貯め込んで、輝虎を待ち受けた。

 永禄4年(1561)関東の多くの国衆を従え、十万の大軍に膨らんだ輝
虎勢は小田原城を力攻めで落とすべく攻撃を始めた。氏康は敵を十分に引き付け、5百丁の鉄砲で斉射し撃退した。小田原城を囲んでいた上杉勢は包囲開始から10日後、食料欠乏から撤退を開始した。北条方は追撃を開始し、上杉傘下の関東国衆に相当の痛手を負わせ輝虎の人望を失墜させた。

 永禄8年(1565)氏康は、軍事外交面も全面的に氏政に譲る事にした。翌永禄9年になると上杉輝虎は関東に攻め入り、上総臼井城を攻めていたが、北条氏政は計略を立てそれを打ち破り、5千人余りの命を奪う大勝利を挙げた。この戦いで輝虎の不敗伝説は崩壊し、その威信も失墜した。それによって、以後輝虎の関東への関与はほとんど無くなった。
 氏康は、元亀2年(1571)病に侵され、57才で亡くなった。その2年後の元亀4年(1573)、三河国の三方ヶ原で、徳川勢を完膚なきまでに打ち破った武田信玄はその直後、病状が悪化し甲斐に引き上げる途中にに53年の生涯を閉じた。この知らせを聞いた時、氏政は新しい時代の到来を感じた。

(以下次号)

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