往事渺茫(おうじびょうぼう) その1           2013年11月17日 (日)
1. はじめに

 「往事渺茫(おうじびょうぼう)」という言葉がある。語源は唐の詩人白居易(白楽天)の詩だが、過ぎ去った昔の事は遠くかすんでおぼろげであるとの意である。小生は昭和8年(1933)生まれで、今年(平成25年)80才になった。

 戦前、戦中、戦後を経て、平成も25年の現在まで生きている小生にとって、戦前、戦中の出来事は夢まぼろしの如く遠くはるかな思い出になってしまいそうである。

 人生50年と思っていた戦争直後の昭和21年に旧制中学に入り、旧陸軍の兵舎を仮校舎として学んだ後、紆余曲折した人生を80才まで生きた者の責務として語り継ぐ事があるのではないかと思い、ぼける前に思い出話をしたいと考えた。

 ところが先日思い立って平均寿命を調べたところ、平成21年の男子平均寿命は79.59才で女子は86.44才という数値があることが分かった。その統計値から更に4年過ぎているので、現在は80才が男子の平均寿命ではないかと思い、まだまだ思い出話をする年では無いのかとも思えた。

 その話を医者の従兄弟に話したら、平均寿命は寝たきりの人も含まれており、日常生活に支障がない人は健康寿命といって男子は70才そこそこの筈で充分年は取っているよと言われた。

 健康寿命とは初耳だったので、ネットで調べたところ「日常生活に制限のない期間を健康寿命と云い、平成22年の平均寿命と健康寿命との差は男子の平均寿命79.55才に対し健康寿命70.42。女子は86.30才に対し、73.62才であると厚生労働省が発表している事が分かり、今はぼける寸前にあるのだ、と改めて思い話を書くことにした。

2.中学時代

 旧制中学の事を最初に書いたので、その辺りから話を進めたい。当時は小学校卒業後、中学校の入試があり中学校は5学年まであった。その次に旧制高校があり、更に大学に続いていた。

 当時小生は茨城県勝田市(現ひたちなか市)に住んでおり、汽車通学で一駅先の水戸市に通っていた。水戸市は昭和20年(1945)8月2日のB29、160機による無差別爆撃により水戸市街のほぼ全域を焼失していた。

 水戸市には歩兵第二聯隊と工兵第十四大隊が配置されていたが、大部分の兵隊は太平洋戦争の時にペリリュー島で玉砕し、終戦時は東部三十七部隊(歩兵)、東部四十二部隊(工兵)という留守部隊が居た。その兵舎が水戸市郊外の旧渡里村にあり焼失を免れたため、戦後水戸市内の旧制中学校の校舎に転用され、そこに旧制中学一年生として通学することになったのである。

 男子中学生は現在茨城大学がある旧三十七部隊跡地、女子中学生はその少し手前にある旧四十二部隊跡地の兵舎が仮校舎だった。校舎といっても机、椅子は無く、広い大部屋の床に座って画板を持参し、そこにノートなどを置いて授業を受けるのである。教科書は新聞紙ほどの大きな紙に印刷したものを自分で裁断して綴じ合わせたものだった。

 各時限の開始・終了の合図は、最初の頃だけだったと思うが当番の先生が焼夷弾の燃えかすをガンガン鳴らしていた。窓は2メートル四方くらいの大きなものだったが、窓枠やガラスは無く、冬は寒くて板を張り付けていた。しかし全部張ると暗くて授業にならないため、3分の1ぐらいは開けてあったと思う。晴れて暖かい日は屋外で授業を受けた記憶がある。物理の先生が教室の真ん中にあった柱を押して作用反作用の説明をしていたことを思い出す。恐らく1年間ぐらいはそんな授業だったと思うが、何時から机や椅子が入り、窓もまともになったのか記憶にない。

 翌昭和22(1947)年の学制改革によって義務教育は6年制の小学校の後に3年制の新制中学校が加えられた。そのため旧制中学校は4年生から上は3年制の新制高等学校になり、1〜3年生は新制高校の併設中学校ということになった。そのため併設中学校を卒業するまで下級生は入らず3年間はずっと最下級生だった。しかし高校に入る時には入試は行わず、落第しなければ自動的に入れることになった。

(以下次号)

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