源氏物語(巻二) 瀬戸内寂聴訳     2020年8月21日 (金)








 源氏物語「巻の二」には、「源氏物語五十四帖」のうち、六帖 「末摘花」、七帖 「紅葉賀」、八帖 「花宴」、九帖 「葵」、十帖 「賢木」、十一帖 「花散里」の、六帖が収められている。(写真は左から表紙、扉、「末摘花」、「紅葉賀」、 「花宴」の口絵)

 その概要と読後感は次の通りである。

六帖 「末摘花(すえつむはな)」 (源氏18才)
 源氏は故常陸宮の姫君が一人残されて誰とも会わず琴だけを友としてひっそりと暮らしているとの話を聞いて、故常陸宮が琴の名手として聞こえていたので、姫君も琴が上手だろうと思い、ある夜荒れ果てた常陸宮邸の庭に忍び込み、姫君の琴の音を忍び聞いた。その後、姫君と結ばれるが、姫君があまりに初心でぎこちない態度に失望する。その後も何度か訪れたがいつも後味の悪い失望感だけが残った。
 ある冬の日、源氏が久し振りに常陸宮邸で一夜を過ごした翌朝、外は一面の雪景色になった。雪の美しい景色を見るように誘った姫君の顔を雪明りで初めて見た源氏は仰天した。
 姫君の顔は馬面で鼻が異様に長く垂れ下がり先が赤く、末摘花(紅花)の様だった。
 しかし姫君のあまりの不器量さと宮家の零落の様子に同情して源氏はかえって見捨てられなくなり世話を続けるのだった。

七帖 「紅葉賀(もみじのが)」 (源氏19才)
 藤壺は皇子を出産した。皇子は源氏に生き写しであり、藤壺に不安と恐れを抱かせる。しかし桐壺帝は自分の子と信じて喜ぶのである。
 皇子が参内すると帝は源氏と皇子が瓜二つなことを無心に喜び、抱いて源氏に見せる。藤壺はいたたまれない気持ちで、汗もしどどに流れるのである。7月に藤壺は女御から中宮になり、源氏は宰相になった。

八帖  「花宴(はなのえん)」 (源氏20才)
 紫宸殿での桜花の宴の後、朧月夜の歌を詠んでいた若い姫君と出会い、契りを交わす。素性も知らぬまま別れたが、後日東宮への入内が決まっていた右大臣の六の君(朧月夜)だった。

九帖 「葵」 (源氏22才)
 桐壺帝が譲位し源氏の兄朱雀帝が即位する。源氏は近衛の大将に昇進し、東宮の後見役になっている。賀茂祭の時、車の場所争いで源氏の初期に契った六条御息所(みやすどころ)の車が源氏の正妻である葵の上の車に押しやられるという屈辱を受け、六条御息所はそれを深く恨んだ。
 葵の上はその頃妊娠しており、六条御息所の生霊に苦しめられながら男子(夕霧)を出産したが亡くなってしまう。
 源氏は亡き葵の上の四十九日の忌明けまで左大臣家に籠っていたが、いつまでも引き籠ってもいられず、桐壺院に参上した後、二条院に戻った。久し振りに見る若紫の姫君はすっかり成長していて、ある日夫婦の契りを結んでしまった。

十帖 「賢木(さかき)」(源氏23才〜25才)
 六条の御息所は、娘の斎宮が伊勢にお下りになるのに合わせて、共に伊勢に出発しつらい憂き世から逃れようとしていた。源氏は名残惜しくなり、野々宮の潔斎所に居る御息所を尋ねる。しかし源氏の説得に悩みながらも御息所は伊勢に向かうのだった。
 
 10月になると桐壺院の病気が重くなり、院は朱雀帝に東宮のことを頼み、源氏を自分の時と同じように朝廷の後見役として扱うよう遺言して崩御した。
 桐壺院の死によって源氏は一層情熱的に藤壺に迫ろうとする。翌年末の桐壺院の一周忌の法要の後、藤壺は突然出家得度をする。源氏を拒み、二人の間の不倫の子である東宮の身を守るための悲壮な決断だった。
 年が明けても藤壺や源氏を含めた左大臣方の人々はすべて昇進を阻まれ、ますます右大臣方の権勢が大きくなった。
 そんな折、右大臣邸の里帰りしていた朧月夜と源氏は密会の現場を右大臣に見つかり、右大臣の娘である太后(故桐壺帝の正妻=弘徽殿の女御))は源氏の失脚を図るのである。

十一帖 「花散里(はなちるさと)」(源氏25才)
 源氏は故桐壺帝の女御だったが子供が出来なかったので、淋しい暮らしをしている麗景殿の女御の屋敷を訪れ、故桐壺帝のことを回想し、その後女御の妹である三の君(花散里)の部屋を訪れた。三の君は以前情を交わし合った人だが穏やかに話し合った。

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平安時代の貴族社会は一夫多妻制度で、夫は妻の婿になると、自分の家から妻の家に通う通い婚だった。姫君は女房という多くの召使によって守られており、その女房たちによる噂によって貴公子たちは目星を付け、恋文として和歌を届ける。そのやり取りを何度かした後、男女が肉体的に結ばれると男はその翌朝はまだ暗いうちに姿を見られないようにして帰る。後朝(きぬぎぬ)の別れである。
 男は家に帰ると直ぐ手紙(和歌)を書いて女の許に届ける。後朝(きぬぎぬ)の文である。その後3日間は欠かさず通うことによって女の親たちに認めて貰うと女の親の家で結婚披露宴の開き、はじめて正式に結婚を認められたことになり、女の家で生活できるようになるのだそうである。

 「末摘花」の帖は、そのようにして何回か通った後、雪明りに初めて姫君の顔を見て仰天するのだが、当時の逢う瀬の夜は今とは違って真っ暗闇だったのだろうか。

 次の「紅葉賀」の帖は桐壺帝が赤ん坊の皇子を抱いて「お前とそっくりだ」と言って源氏に見せるくだりで、藤壺が苦しさに深く悩まされるのに比べて、源氏の苦悩はあまりにも浅薄であり、後日、巻頭に述べた「国宝源氏物語絵巻柏木(1)〜(3)」のように報復されるのである。

  「花宴」の帖は朧月夜の君と初めて会う話だが、その後も密会を重ねており、 「賢木」の帖で父親の右大臣の見つかってしまう。源氏はこの様に危険が多いところや困難の多い逢瀬に却って情熱を燃やす性癖があるようだと紫式部は書いている。

 「葵」の帖では、加茂の祭の時、御息所(みやすどころ)と葵の上の車が場所争いをして御息所の車が、葵の上の車に押しのけられてしまい、御息所のプライドを大きく傷つけるという事件が発生した。妊娠していた葵の上への御息所の怨念が、物の怪となって取り付いて苦しめる。源氏は葵の上の病床で、その生霊の姿を見て、御息所がおぞましくますます心が離れて行くのである。
 御息所の怨念のせいか、葵の上は男の子を生んだ後急死してしまう。そしてその後、源氏は紫の上と結ばれるのである。

  「賢木」の帖は桐壺帝の死と藤壺の出家に依る源氏の失意、帝の死によって権勢は左大臣側から急速に右大臣側に移って行く中での朧月夜と源氏の失態で、更に不遇になるであろうと思わせる。今まで最長の帖である。

 最後の 「花散里」の帖は「葵」「賢木」の濃密な描写とは異なり、さらりと舞台回しの役割をしている。

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(以下次号)