源氏物語(巻五) 瀬戸内寂聴訳     2020年11月 3日 (火)







 源氏物語「巻の五」には「源氏物語五十四帖」のうち、二十五帖 「蛍」、二十六帖 「常夏」、二十七帖 「篝火」、二十八帖 「野分」、二十九帖 「行幸」、三十帖 「藤袴」、三十一帖 「真木柱」、三十二帖 「梅枝」、三十三帖 「藤裏葉」の九帖が収められている。(写真は左から表紙、扉、「野分」、「蛍」、の口絵)

 その概要と読後感は次の通りである。

二十五帖 「蛍」 (源氏36才)
 前の帖の 「胡蝶」で養父にもかかわらず、玉鬘に懸想してしまう源氏だったが、この帖では源氏の弟の兵部卿の宮が玉鬘の許を訪れた時、夕方からひそかに集めた沢山の蛍を放し、おびただしい蛍の光に囲まれた玉鬘に恋心を募らせていく。この場面から兵部卿の宮を蛍兵部卿宮と呼ぶようになる。
 また夕霧は雲居の雁のことを忘れられずにいたが、内大臣に許しを懇願する気にはなれなかった。

二十六帖 「常夏」
 盛夏の頃、夕霧の中将を内大臣の子息たちが訪ねて来た。源氏もその場に居合わせ、最近新しく迎えた落胤の近江の君の評判が悪いとの話を聞く。
 内大臣は本人の早口で、下品な言葉遣いを知り弘徽殿の女御に行儀見習いを頼むことにした。

二十七帖 「篝火(かがりび)」
 内大臣の姫君である近江の君の悪評がうわさになっているのを知った玉鬘は源氏に引き取られた幸運を感じるのだった。
 秋の夕べ、玉鬘の許を訪れた源氏は夕霧の中将が内大臣の子息たちと笛と筝で合奏しているのを聞いて篝火を焚いて誘った。.夕霧の中将は笛を吹き、柏木の頭中将は源氏から和琴の演奏を引き継ぎ、父の内大臣と同様に素晴らしい音色で玉鬘に聞かせるのだった。

二十八帖 「野分」
 8月のある日、激しい野分(台風)が吹き荒れた。六条院の庭の草花も倒れ、見舞いに訪れた夕顔は紫の上の姿を垣間見て、その美しさに心を打たれる。
 翌日、源氏は夕霧を連れて秋好中宮を始めとする女君たちの見舞いに回った。玉鬘の許を訪れた時、親子とは思えぬ親しげな源氏に驚き、不審に思うのだった。

二十九帖 「行幸(みゆき)」(源氏36才〜37才)
 その年の12月、冷泉帝は大原野へ鷹狩りに行幸された。玉鬘も見物に参加し始めて実父の内大臣を見た。蛍の宮やひげ黒の大将などを見たが、冷泉帝の端麗さに目を奪われ、源氏に勧められていた尚侍としての入内に興味を覚えるのだった。

 源氏は結婚をするために必要な裳着の儀の準備をし、裳を着せる役の腰結(こしゆい)役に内大臣を依頼したが、玉鬘が実娘とは知らない内大臣には母大宮の病を口実に断られた。
 源氏は大宮の見舞いに参上し、大宮と内大臣に玉鬘の素性を明かした。内大臣は腰結役を引き受け、裳着当日に親子の対面を果たした。

三十帖 「藤袴」(源氏37才)
 玉鬘の姫君は尚侍(ないしのかみ)としての宮仕えを.勧められるが、帝の寵愛の厚い秋好中宮と弘徽殿の女御と争うことは考えられず悩むのだった。
 源氏の許に行った夕霧は玉鬘との関係を追及する。そんななか、玉鬘の参内は10月に決まり、求婚者たちから諦めきれない文が届けられ、その中から蛍兵部卿宮にだけ短い返事を送った。

三十一帖 「真木柱」(源氏37才〜38才)
 尚侍として出仕を控えていた玉鬘だったが、その直前に、髭黒の大将が弁のおもとという女房の手引きによって、強引に契りを結んでしまった。有頂天の髭黒に比べて、玉鬘は優雅な源氏や蛍の宮を思い、嘆き悲しんだ。
 髭黒の正妻、式部卿の宮の娘はかっては美貌を誇っていたが、物の怪に取り付かれて心身ともに苛まれていた。哀れに思う髭黒はあれこれと気にかけていたが、ある日、玉鬘を訪れようとしていた時に、錯乱した妻に灰を浴びせかけられ、それ以来妻を避けるようになった。
 式部卿の宮は娘を自邸に迎えるため車を差し向けた。髭黒との仲を断念した娘は二人の息子と姫を引き連れて式部の宮邸に帰る。姫君が柱の割れた隙間に「今はとて宿離れぬとも馴れきつる 真木の柱は我を忘れな」と書いて挟んだことから、この帖の名前が付けられた。髭黒大将は二人の息子は取り戻したが、真木柱の姫君は返して貰えなかった。
 翌年になって玉鬘は出仕するが帝との仲を心配する髭黒は強引に自宅に連れ戻す。その後玉鬘は男子を出産する。

三十二帖 「梅枝(うめがえ)」(源氏39才)
 源氏は正月を迎え39才になり、明石の姫君の裳着(もぎ=女子の成人式)を迎える準備をする。東宮(朱雀帝の子).の元服も迫っている。明石の姫君の裳着では秋好中宮が腰結(こしゆい=袴の腰紐を結ぶ役)を務めた。裳着の後、直ぐに入内をさせる積りだったが、他の公卿達が、源氏の威光を恐れて姫君を入内させることを遠慮していると聞き、入内を遅らせることにした。
 一方内大臣は雲居の雁の処遇に悩んでいた。源氏も夕霧がなかなか身を固めないのを案じていた。
 
三十三帖 「藤裏葉(ふじのうらば)」(源氏39才)
 夕霧と雲居の雁の恋を無理やり裂いてから数年たち、内大臣は自分が折れるべきだと考えるようになり、自邸で藤の花の宴を開くという内大臣の口上を持った柏木の中将が夕霧の中将を迎えにやってきた。宴の席上娘の雲居の雁と夕霧の結婚を認めた。
 また源氏の娘、明石の姫君も入内を果たした。養母紫の上は姫に付き添えないので実母明石の君に配慮し、後見役を譲ることにした。同じ六条院に居ながら会うことも出来なかった明石の君の喜びは大きく、姫の入内により入れ違いになる二人の母は初めて対面し、互いに相手の美点を認め合った二人は心を通わせるのだった。全ての心配事が解決した源氏は、出家の志を持つようになる。

 秋になり、40才の賀を控えた源氏は准太上(じゅんだいじょう)天皇の待遇を受け、内大臣が太政大臣に昇任し、夕霧の宰相は中納言に昇進した。10月になり、冷泉帝と朱雀院は揃って紅葉の六条院に行幸し華やかな宴が催された。源氏は栄華の絶頂に立ったのである

top↑

 瀬戸内寂聴は、源氏のしおりの中で、
 『今こそ、源氏の半生はここに大団円を迎える。「藤壺」にはじまり、「藤裏葉」で、生涯の一区切りとなり、この帖を第一部の終わりとする』と述べ、更にこの時の主要登場人物の年齢を、源氏三十九歳、紫の上三十一歳、秋好む中宮三十歳、明石の君三十歳、夕霧十八歳、雲居の雁二十歳、明石の姫君十一歳であると記している。

 紫式部の生きた時代は「この世をばわが世とぞ思う望月の 欠けたることもなしと思えば」との和歌で知られる藤原道長の時代である。
 紫式部は道長の娘である彰子(一条天皇の妃)に仕えた女房であり、道長も紫式部が源氏物語の作者であることも知っていたと思われ、光源氏に道長の姿が投影されていたのは間違いないことである。

 また女房というのは妻のことではなく、姫君に仕える女性のことで、彰子が入内した時の女房は40人も居たそうである。この頃高級貴族の姫君は殆ど他人に顔を見せることはなく、貴公子たちは女房たちから姫君の噂を聞き、和歌をことづけたり逢う瀬の手引きをして貰ったりするのである。

 平安時代の高級貴族を表わす公卿(くぎょう)とは摂関をはじめ、大臣、大納言、中納言、参事という三位以上の二十人内外の人たちを言い、上達部(かんだちめ)とも言われる太政官の最高幹部である。二十一帖「乙女」には夕霧が六位という下級官位からスタートすることに不満を覚える話が書かれている。

 「玉鬘」の帖から「真木柱」までの10帖は玉鬘を巡る物語を中心にして六条院の一年を優雅な筆致で描く短い帖で構成されており、「玉鬘十帖」と呼ばれることもある。

top↑

(写真をクリックすると大きくなります)

(以下次号)