イバイチの奥の細道漫遊紀行

[那須野]

H21-8-11作成

 日光を出た芭蕉と曽良は、今市まで戻りそこから日光北街道(国道461号線)に入り、玉生(塩谷町)に泊まった。「宿悪故、無理ニ名主ノ家入テ宿カル」と曽良旅日記に書いてある。翌日は矢板に出て、更に沢村という集落を通って箒川を渡り、太田原経由で黒羽に向かっている。当時箒川を過ぎた辺りから太田原の間は那須野と呼ばれ、痩せた土地が続いていて、薄が生え茂っている中に踏み跡のような道がついているだけの広漠たる原野だったという。
 道が判らず困っている時、放し飼いの馬と草刈をしている男に逢い事情を話すと、その男は全財産とも言うべき馬を貸してくれたのである。 「おくのほそ道」では、「『いかがすべきや、されども此野は縦横にわかれて、ういうい敷旅人の道ふみたがえん、あやしゅう侍れば、此馬のとどまる所にて馬を帰し給え』と、かし侍ぬ。ちいさき者ふたり、馬の跡したいてはしる。独は小姫にて、名をかさねと云。聞なれぬ名のやさしければ、 かさねとは 八重撫子の 名成べし 曾良  頓て(やがて)人里に至れば、あたいを鞍つぼに結付て馬を返しぬ。」 とある。
 心温まる情景である。しかし全財産とも言うべき馬を、何の担保も無く、名も知らぬ旅人に貸してくれたり、かさねという名前など、あまりに美しすぎる話で、芭蕉の創作ではないかといわれている。「おくのほそ道」 全体が単なる紀行文ではなく、フィクションを取混ぜた文芸作品であるので、事実とは異なっている場面が数多く見うけられるが、ここもその一つであろう 。

 日光から高速道路を矢板ICまで行き、国道4号線に日光北街道(国道461号線)が合流する少し先に沢という集落がある。その集落にある千手院観音寺という寺に曾良の句碑がある。この寺は下野三十三観音霊場の8番札所になっている。屋外に安置された大きな慈母観音菩薩像が夕陽を浴びて金色に輝いていた。重文澤観音と刻まれた大きな碑が設置されていたが、県の文化財になっている本尊の千手観音菩薩像が澤観音と呼ばれているのである。

  曽良の句碑は、観音寺境内の右手の木陰にひっそりと置かれていた。かさねの句が刻んであるのだが、だいぶ磨耗してよく読めない。曾良の句碑では霊験が無いせいか立て札も無く冷遇されていた。
 芭蕉はこの付近から箒川を渡り、薄葉という集落を過ぎて大田原に向かった。現在の日光北街道にかさね橋という名前の橋が架けられ、橋の両側にかさねの句と蕪村の絵を彫ったブロンズ製のレリーフがある。
  (H15-10-9訪) 

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注2) 青字は「おくのほそ道」にある句です。
注3) 
緑字は「おくのほそ道」の文章です




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