イバイチの奥の細道漫遊紀行

[ 尿前の関 ]

H21-11-1 作成

岩出山

 達谷窟の近くには、渓谷の対岸から団子をロープで運んでくれる名勝の厳美渓があるが、以前訪れたことがあり旅程もつまっていたのでそこには寄らず、栗駒町から一迫町を経由し、岩出山町(平成18年に市町村合併で大崎市になった)に行く。奥州街道の一関から栗駒、一迫町真坂を通って岩出山に出るこの道を松山街道または陸奥上街道と言い、源頼朝が奥州征伐の時も通った街道である。

 一関を後にした芭蕉と曾良は岩ヶ崎(栗駒町役場付近)を通り、一路上街道を岩手(出)の里に向かった。この陸奥上街道の岩出山地区の数ヵ所は「歴史の道」として整備され国指定史跡になっている。 岩出山地区に入って直ぐの潜松坂という場所に県道に沿って細い道が整備されている。
道は一旦途切れるが更に行くと千本松長根入口の標識があり、松並木の間に石畳の坂道が細く続いている。この千本松長根は県道を離れて1.5キロメートル古街道として整備されているそうである。

 上街道近くの県道はやがて羽前街道(国道47号線)と合流し,岩出山町の市街地に入る。おくのほそ道には 「南部道遥かにみやりて、岩手の里に泊まる。」とあり、岩出山の街中に「芭蕉一泊の地」の標識と芭蕉像があるということだったが、道路工事中で一時撤去されており見ることは出来なかった。
 岩出山町には岩出山伊達家(仙台伊達家の支藩)の藩校だった旧有備館がある。これは元禄4年(1691)に開校したもので、現存する最古の学問所だといわれる。ここは建物の前方にある大きな池と4つの中島のある回遊式池泉庭園と共に国指定史跡・名勝になっている。もう少し時期が過ぎると紅葉が素晴らしいということだった。池には緋鯉が多数泳ぎ、萱葺の建物の影を静かに映していて、池の周りの小道を逍遥して勉学に打ち込んだ頭を休め、思索に耽るには絶好の場所である。

 岩出山を出立した芭蕉は、鳴子の湯治場には立寄らず尿前の関から出羽街道中山越えの道を通ることにした。おくのほそ道には 「小黒崎・みづの小島を過て、なるごの湯より尿前の関にかゝりて、出羽の国に越んとす。」と記している。「小黒崎」,「美豆(みず)の小島」は歌枕の地だが、昔の面影は殆ど無いとのことであるので立寄るのは割愛し、また道路工事が多くて思わぬ時間がかかり夕暮れ時になってしまったので、鳴子温泉に直行した。

尿前の関

 鳴子温泉から国道47号線を5分足らず車で走ると、鳴子峡入口の少し先の右側に尿前の関跡に続く道があり、直ぐに関跡につく。右方にある関所を模した門を入ると尿前の関についての説明板があり、階段状に下っている広場がある小公園になっていて、なかなか風情がある作りである。
 下方に尿前の関の碑と、筆と巻紙を持った芭蕉像が建っている。碑文はおくのほそ道の 「南部道遥かにみやりて、岩手の里に泊まる。小黒崎・みづの小島を過て、なるごの湯より尿前の関にかゝりて、出羽の国に越んとす。此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関を越す。大山をのぼって日既暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。蚤虱 馬の尿する 枕もと」 という尿前の関の段 と句が刻んであり、その下に蕪村が書いた画巻の絵も刻んである。本当の関があった場所はここからさらに百メートルほど下がったところだというが、そこには案内板と出羽仙台街道中山越の標識があるだけだった。

 関跡の公園の道を隔てた反対側に芭蕉句碑の案内石があり、山中の径を少し登った所に芭蕉の句碑が建っている。碑の前面に芭蕉翁とあり裏面に 「蚤虱 馬の尿する 枕もと」 の句と明和五戌子六月十二日建 尿前連中と刻んである。
 インターネットの「俳聖松尾芭蕉・みちのくの足跡」によると岩出山に宿泊した時に芭蕉は、「道遠ク、難所有之」(曽良旅日記)と聞かされて、尾花沢までの旅程を、当初羽後街道(国道457号線)を中新田迄行き、そこから中羽前街道(国道347号線)に出て、小野田経由で銀山温泉付近を通る予定だったものを、急遽鳴子経由に変更し、元禄2年(1689)5月15日 (新暦7月1日)通行手形の用意がないまま尿前から中山峠越えを目指した。

 尿前の関に掛かったが、厳しい警固の中、手形不携帯のために怪しまれ取り調べを受ける事態となった。事情を説明すれば通過できると判断したようだが、実際は、本文や日記に見られるように、他国者の出入りに対する取り締まりはかなり厳しいものだった。即ちおくのほそ道には 「なるごの湯より尿前の関にかゝりて、出羽の国に越んとす。此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。」 とあり、曽良旅日記でも 「断六ヶ敷也。出手形ノ用意可有之也。」と、事情を説明しただけでは通行六ヶ敷く、出手形(通行手形)を用意するべきだと記している。(写真は尿前の関案内板)
 ここから中山宿を経て新庄領堺田に至る約9キロ、所要時間3時間半を要する道は、出羽街道中山越の「歴史の道」として整備復元されている。しかし当時の道は細く鳴子峡の断崖を迂回し、小深沢,大深沢という深い谷を下りまた這い登るという難所だった。
 芭蕉一行は前日岩出山を出立して、関で留められたりこの難所を乗り越えたりしたのだが、一日で堺田まで行っており、当時の人の健脚には驚かされる。芭蕉は古い歴史のある鳴子の湯治場には立寄らなかったが、飯坂の湯での印象が悪かったせいなのか、それとも先を急いだせいなのだろうか。

 またこの道は義経主従が頼朝に追われて平泉に落ちていく時、反対方向に通った道でもある。尿前の地名も義経の子供がこの辺りで生まれ、初めて尿をしたからとか、義経の北の方が腹痛が激しく尿を漏らしたからなどの伝説があるそうである 。
 尿前の関入り口から国道47号線を挟んで坂道を上がって行くと鳴子公園に出る。日本こけし館の前を過ぎて行くと斉藤茂吉の芭蕉を偲んだ立派な歌碑がある。「元禄の 芭蕉おきなもここ越えて 旅の思いをとことはにせり  茂吉」 とある。


 鳴子峡は鳴子公園の遥か下を大きく蛇行していて、上にある公園からはその景観は見られない。公園から国道47号線に出て見晴台のある鳴子峡センターに行く。ここから国道の通る大深沢橋を眺めると峡谷が遥か下に見えて、紅葉の盛りには峡谷から橋の上方の山々まで一面に錦秋に染まり素晴らしい眺めが見られるのだが、今回は少し早かったようだ。
   (H14-10-16訪)

注1) 写真をクリックすると大きくなります。
注2) 青字は「おくのほそ道」にある句です。
注3) 
緑字は「おくのほそ道」の文章です。



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