イバイチの奥の細道漫遊紀行

[新庄・本合海 ]

                          H21-11-29 作成 

新庄

 芭蕉一行は山寺参詣の後、大石田の高野一栄宅で3泊した。その後すぐ船で最上川を下るつもりだったが、大石田のときと同じ様に、新庄の俳人たちの熱心な誘いに応じて新庄に向かったものと思われる。曽良の旅日記によると一栄と川水に送られて猿羽根峠を越え、番所のある舟形まで馬で行ったと記されている。最上川は猿羽根峠の手前から左手に大きく蛇行し、芭蕉が舟に乗る本合海までは見ることは出来ない。新庄では渋谷風流という俳人宅に行くのだが、その途中「柳の清水」と呼ばれる清水が湧いている場所に立ち寄り、「水の奥 氷室尋ぬる 柳哉」 の句を詠んでいる。 芭蕉一行が山寺参詣をした日は陽暦7月13日であり、その後大石田に3泊した後で梅雨明けの暑い日が続いた頃である。尾花沢では 「涼しさを 我が宿にして ねまるなり」 大石田では 「五月雨を 集めて涼し 最上川」 と涼しさを求める句が続いている。「水の奥‐‐‐」 の句からも、いかにも暑さから逃れたいとの願望が感じられる。

 この「柳の清水」は昭和前期までは豊かな清水が湧き出ていたそうで、その後荒れ果てていたものを昭和63年に発掘整備して、現在は大きな柳の木と水が流れる小さな池が作られている。ここのある何代目かの柳の木の下に 「水の奥 氷室尋ねる 柳かな」 の芭蕉の句と、その裏面に芭蕉を慕って新庄を訪れた大島蓼太の 「涼しさや 行く先々へ 最上川」 の句とを刻んだ句碑がある。大島蓼太は芭蕉の80年ほど後の人で、深川要津寺に芭蕉庵を再興させたことで知られている。

 「おくのほそ道」の記述は、大石田の後にすぐ最上川舟下りに移っており、曽良の旅日記が発見される以前に芭蕉の後を辿った正岡子規は大石田から舟で下っている。しかし実際には新庄の渋谷風流宅に2泊し、風流の兄で新庄一の商家である渋谷盛信宅で7人による歌仙を巻いている。芭蕉は大石田と同じ様に歓待されたのだが、重複を避けるために省略したのである。

 「おくのほそ道」は単なる紀行文では無く事実と虚構を織り交ぜたセミドキュメンタリ文学であるという事は、千住を旅立ってから最初の宿泊地を草加としているが実際は春日部に泊った事や、笠島と武隈の松の順序を反対にしている所などにも表れている。また文体も格調高い漢文調あり、畳みかける講談調あり、歌うがごとき和文調ありといった風で文章にも非常に苦心している。それが文中の俳句と共に何回読み返しても新鮮さを失わない素晴らしい古典になっている由縁であろう。

 「柳の清水跡」から新庄城址に行く。新庄城は新庄藩祖戸沢政盛(まさもり)が寛永初年(1624)に築いたもので243年間戸沢氏の居城だったが、明治戊辰戦争の時市街地とともに焼失し、現在は当時の堀や石垣を残し戸沢神社・天満宮・護国神社が祀られ「最上公園」となっている。ここには芭蕉の遺跡は何も無かった。 芭蕉が泊った風流邸跡を探して市街地に行ったが、マップの場所には見当たらず、近くの市民プラザで、芭蕉が渋谷盛信宅で詠んだ 「風の香も 南に近し 最上川」 の句碑を見付けた。


本合海

 新庄市街地から国道47号線に出て本合海に行く。芭蕉一行はここから舟で最上川を下ったのである。本合海大橋の少し手前を国道458号線に左折して直ぐの所に積雲寺という寺があり、その向かいの道を行ったところの最上川を見下ろす地点に「史跡芭蕉乗船の地」という碑と、月山を臨む芭蕉,曾良の陶像及び「五月雨を あつめて早し 最上川」 の句碑がある。

 ここは新田川という新庄市街地を流れる支流が最上川に流れ込む場所で、最上川は大きく蛇行して中洲を作りその裏に乗船場があったという。川の対岸には八向山という小さな山があり、その崖の上は空濠を張り巡らした八向楯という堅固な砦になっている。なかなかの景勝の地で懸崖の木々は紅葉が始まりかけている。最上川に架かる本合海大橋から河畔に下りると八向山の中腹にある矢向神社の小さな祠が眺められるが、最上川を挟んだこちら側に赤い鳥居がある。わざわざ川を渡らなくても参拝できるようにしてあるのだろう。最上川は芭蕉が乗り込んだ本合海乗船場付近まで蛇行しながら北上しているが、この八向楯にぶつかり大きく西に90度方向を変えるため、浅瀬が多く往来する舟の難所になっている。そのせいもあり矢向神社(矢向大明神)は川舟の守り神として信仰を集めているそうである。

 源義経は兄頼朝に追われたときに、芭蕉とは逆に清川から本合海へと遡ってこの矢向神社を拝し、平泉に向かったと義経記に出ている。鳥居の近くに「郭公の 声降りやまぬ 地蔵渦  兜太」 「ひぐらしの 網かぶりたり 矢向楯 皆子」 を刻んだ句碑があった。金子兜太と皆子は夫妻で俳人であり、現在も活躍している。地蔵渦というのは近くにある積雲寺本尊の地蔵菩薩が最上川の淵から漁師の網にかかって引き上げられたとの言い伝えがあることによる。

 近くの積雲寺境内及び近くの八向公園には 「草枕 夢路かさねて最上川 ゆくへもしらず 秋立ちにけり  正岡子規」 「最上川 いまだ濁りてながれたり 本合海に 舟帆をあげつ  斉藤茂吉」の歌碑があるという。 昼飯時だったので本合海から少し行った「道の駅とざわ」で昼食にしようと思ったが、この駅舎は韓国風建物で出来ていて、レストランも韓国料理が殆どである。韓国人も多く訪れて、日本ではないような場違いな雰囲気を感じ、早々に退散した。

  (H15-10-19)


注1) 写真をクリックすると大きくなります。
注2) 青字は「おくのほそ道」にある句です。
注3) 
緑字は「おくのほそ道」の文章です。



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