イバイチの奥の細道漫遊紀行

[ 永平寺 ]

H22-2-28作成 

天龍寺

 越前に入った芭蕉は、汐越の松を見た後、福井県永平寺町と合併した旧松岡町にある天龍寺という永平寺の末寺に向かった。この寺の住職である大夢和尚とは以前からの知り合いだったという。
 旧松岡町役場の近くにある天龍寺の境内は山門も設けて無く、開放的な寺だった。前庭に余波(なごり)の碑として芭蕉と北枝を刻んだ石像がある。
 その隣に 「
物書て 扇引さく 餘波哉」 の句碑がある。おくのほそ道には 「金沢の北枝といふ者、かりそめに見送りて、この所までしたひ来る。所々の風景過(すぐ)さず思ひつづけて、折節あはれなる作意など聞ゆ。今既に別れに臨みて、物書て 扇引さく 余波哉 (なごりかな) 」 と、ここで北枝と別れたと記されている。北枝は、脇句として 「笑ふて雰(きり)に きほい出ばや」 と付け、切ない別れを笑いに紛らわそうとしている。
 北枝は加賀藩お抱えの砥師で小松に住んでいるが、芭蕉が金沢に来た時に兄牧童と共に入門したもので、そのときはまだ二十歳前後だったと思われる。その後北陸俳壇の中心人物となり蕉門十哲の一人に挙げられるようになった。芭蕉に山中温泉で教えられたことを「山中問答」として記している。
 芭蕉と北枝が実際に別れたのは吉崎御坊のもっと手前の加賀と越前の国境に近い「橘の茶屋」であるとの説もある。芭蕉の弟子の各務支考が北陸を旅した時のことを記した『古今抄』にそう書いてあるという。国境には関があり越えるにも帰るにも手形が必要なため、面倒を避けて国境の手前で別れたという方が自然であるが、これも曾良という同行者が居ないため実情は不明である。

永平寺

 おくのほそ道では丸岡天龍寺の記述の後、永平寺について 「五十丁山に入りて永平寺を礼す。道元禅師の御寺也。邦機千里を避て、かかる山陰に跡をのこし給ふも、貴きゆへ有とかや」 と記してあり、参拝したと思われるが、曾良が同行していないので裏付けになる資料が無く、実際の道程や真偽のほどは不明である。
 芭蕉の行く先々を先行して訪れている曽良は永平寺には参詣していないし、永平寺にも芭蕉の足跡を偲ぶものは何も無いのである。(写真は永平寺入口付近と勅使門)


 私が永平寺を平成17年に訪れた時、調理場である大庫院の近くが人で一杯になっていた。昼近くで食事の前の「僧食九拝」という礼拝を行おうとするところだったのである。大庫院の前に吊るしてある雲版と呼ばれる青銅製の板を打ち鳴らすのを合図に、盛付けられた食事を卓上に安置し、僧堂に向かって香を焚き九拝する。それが終了し合図の打ち鳴らすと、待機していた雲水たちが食事を僧堂に運ぶのだが、その間大庫院の前は通行禁止になるため、参拝客と雲水で一杯になり混雑するのである。珍しい行事を見た気がした。(写真は大庫院)

 七堂伽藍の中心にあり釈迦牟尼佛が祀られている仏殿から、聖観世音菩薩が安置され、伽藍の最奥にある法堂を拝観し、西側にある承陽殿に行く。ここは「只管打坐(しかんたざ)」を標榜して曹洞宗を開き、永平寺を開山した道元禅師の廟である。(写真は仏殿とその内部)

 道元禅師は名利栄達を求めず、ただひたすらに座禅を組むことによって悟りを得ることを宗派の基本とし、都から遠く離れた永平寺を本山としたのだが、三世の義介が開祖の教えに反し時の権力と結びついて大伽藍の寺院を次々と建立した。それを道元の書記役をしていた義演が攻撃し、義介を追って永平寺四世になった。義介は加賀に去り大乗寺を開山し、大乗寺二世の螢山と共に大衆化路線を推し進めた。その後も路線をめぐって騒動宗と揶揄(やゆ)されるほど激しい対立が続いたが、その活力が曹洞宗を全国に広げた源になったのであろう 。

 北陸の名刹といわれる大伽藍の寺院の多くは大本山永平寺をはじめ、「伽藍瑞龍、規矩大乗」と称される高岡の瑞龍寺,金沢の大乗寺や螢山禅師の拓いた能登の総持寺祖院など、曹洞宗の大寺院が多く、北陸に於ける勢力の大きさのほどが伺える。

 芭蕉はその後、福井の等栽を尋ねていくのだが、おくのほそ道の150日あまりに亘る道中のうち、山中までの125日間は曽良が同行し、山中から小松に戻った後天龍寺までの4〜5日間は北枝と一緒である。この後福井から敦賀までは等栽、敦賀から大垣までは路通が同行しており、芭蕉が一人だけで旅をしたのは天龍寺から永平寺を経由して()福井に着くまでの僅か1日だけである。いつも誰かと共に歩いていた芭蕉は一人のとき、何を思いながら歩いたのだろうか。

  (H17--7訪・永平寺H20‐12‐8再訪)


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注2) 青字は「おくのほそ道」にある句です。
注3) 
緑字は「おくのほそ道」の文章です。



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